3日ぶりに開店したまどろみ蛙亭は、客でごった返していた。客達は、この店が休業するという未曾有の事態があった事も忘れ、いつものように騒いでいる。

カウンターにはマスターが居て、酔っ払いの相手をし、厨房から酒と料理を両手に抱えたハナンが出てきてはテーブルの間を飛び回る。何年も毎日繰り返されてきた光景だった。

「…ねえ、トマー」

店の隅の、ほんの少しだけ薄暗くてほんの少しだけ静かな席で、ハナンを目で追っていたアロエが口を開いた。

「あの子の爪、すごく綺麗ね」

「…あ?」

トマーは、あまりおいしくないマスターの料理を咀嚼している。

「ほら、右手の、薬指の爪。綺麗な真珠色。どこでやってもらったのかしら」

たっぷり一分ほどかかって、トマーが硬い肉の塊を飲み込む間、アロエは、酒をちびちび飲んでいた。ちなみに、あの後すぐに見世物一座の団長は原因不明の悪夢に悩まされるようになり、半狂乱になって行方不明になってしまった。一座は解散、自分は路頭に迷ってこの先どうなるやら、という愚痴を言い続け酒をしこたま飲み続け、アロエはかなり酔っ払っていた。

「俺や、おまえじゃ無理だな」

「え?」

一分前の自分の発言なんかすっかり忘れていたアロエが聞き返したのを、トマーは無視して、もう一口、肉を口に運んだ。空になったジョッキや皿を持ったハナンが、そばを通りかかる。

「トマーさん、アロエさん、おかわりもってきましょうか?」

トマーはまだ口をもぐもぐさせている。ハナンの右手の薬指の爪は、綺麗な真珠色をしていた。あの日から、ゆっくり色あせていってはいるものの、人間には到底作り出せない海の色だ。近くで見ると、体のあちこちに小さな傷跡がある。あの日体験したことが、夢ではないという証拠だ。爪の色はやがて落ち、傷もいえるだろう。だが、初めて自分から一歩を踏み出した経験、それは、消える事は無い。

ハナンがカウンターのほうに足早に戻ってくる。マスターに向けられているその笑顔は、いつもと変わりのないものだった。

少なくとも、今日はまだ。

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おわり

2009.09.02

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