アロエから聞いた下水の入り口は、見世物小屋に程近く、防壁のすぐ脇にあった。入り口といっても、地面に大きな穴が唐突に開いているだけだ。この穴はずっと前からあって、この辺りに住む人々が、勝手にゴミを捨てていた。回りは一応柵で囲ってあるが、乗り越えるのは簡単だ。

覗き込むと、下のほうに水が流れているのが見える。中は結構広いようだった。柵にロープを括り付けて、慎重に下へと降りてゆく。今入ってきた穴は、何かの原因で、水路の天井が落ちてできたようだ。水路は石組みの立派なもので、運河のそれと良く似ている。水深は腰程まで、流れは速い。前後を見渡すが、真っ暗で何も見えない。ハナンはたいまつに火をつけ、流れに沿って、歩き始めた。

最初はかび臭い匂いがしていたが、水の流れが緩やかになるにつれて、悪臭がしはじめた。水路の両脇にさまざまなゴミが引っかかっている。床もぬるぬるして注意しないと転んでしまいそうだ。いい加減うんざりしてきた頃、大きな水路に突き当たった。高さも幅も、今までの水路の倍ほどある。両脇が高く、通路のようになっていた。一人通るのがやっとのスペースだが、ほとんど水に浸からず歩くことができるのはありがたい。ハナンは迷わず通路を行く事にした。たいまつはまだまだ残っているが、帰りの事も考えなければいけない。

先を急いでいたので、少し、注意力が散漫になっていたのかもしれない。ふと気がつくと、後ろから無数の気配がする。歩みを止めることなく、そっと振り向こうとしたそのとき、前方から何かがハナンに向かって飛んできた。たいまつを持っていないほうの手で、かろうじて跳ね飛ばす。地面に落ちたそれは、猫ほどの大きさはあるネズミだった。一匹だけではない。前にも、後ろにも、同じような大きさのネズミが無数に居て、その目は一様にハナンに向けられている。

ぞっと怖気立ったものの、歩みを止めず、ゆっくりと剣に手をかける。例の、練習用の剣だが、これが今ある唯一の武器だ。ネズミたちは、光の届く範囲を避けるように、ハナンを取り囲んでいたが、じわじわと近づいてきているようだった。

後ろから飛び掛ってくる気配に向かって、ハナンは、剣を思いっきりたたきつけた。骨がひしゃげる嫌な感触の後、甲高い悲鳴がして、小さな水音がした。思わず、立ち止まる。一瞬だったが、それで十分だった。半分振り向きざまになっているハナンに、前方から、ネズミの集団が襲い掛かった。剣では間に合わない。とっさにたいまつを突き出した。避け損ねたネズミが炎に焼かれて悲鳴を上げた。何匹かが体にぶつかって来たが、炎を恐れてすぐに飛び退った。間髪いれず、後ろの集団が来る、その前に、最初の攻撃で少し手薄になった前方に向かってハナンは走った。ネズミを数匹蹴散らし踏みつける。地下がこんな事になっているとは知らなかった。人魚の子供の事がとにかく心配だった。こんなに暗くて危ない場所で、たった一人、どれだけ心細い思いをしているのだろうか。

ひたひたと追ってくる気配はするが、この調子で走り続けていれば追いつかれる事は無さそうだ。そう思った矢先、通路が途切れた。水路はまだまだ続いているが、この先はまた腰まで水につからないといけないだろう。逡巡しているうちに、ネズミたちがたちまち視界内まで迫ってきた。ハナンは腹をくくった。無限に居るわけではないのだ。後ろから襲われる心配がないここで、蹴散らしてしまおう。利き手に剣、反対側の手にたいまつを持って、待ち構える。

剣を振って、飛び掛ってきたネズミを叩き落す。甲高い、耳障りな鳴き声が反響するのに混ざって、背後から、水音が聞こえた。肩越しに見ると、水路を泳いで向かってくるネズミの一団が見えた。ハナンは、初めて恐怖を感じた。頭の真ん中が痺れるように冷たくなる。思考が停止しそうになるのをなんとか奮い立たせ、とにかく応戦するべく、体勢を変えた、一瞬の隙を突いて、ネズミが腕に噛み付いた。ハナンは、反射的にネズミを払いのけたが、勢いあまって剣を落としてしまった。

「あっ……」

剣は目の前の水路に落ち、すぐにネズミの大群に飲まれて見えなくなった。ネズミたちは、ハナンをぐるりと取り囲んだ。たいまつを振り回すと少し下がるが、それでも執拗に襲い掛かってくる。それを避けるために、たいまつと腕をやみくもに振り回す。実際は短い時間だったろう。でも、何時間もそうしているかのように、ハナンは疲れきっていた。足元に転がるネズミの死体にいとも簡単に足をとられ、しりもちをつく。ネズミたちと目があった。真っ赤な無数の目に、食餌の喜びが溢れた。

「伏せろ!!」

遠くから、聞き覚えのある声が響いた。ハナンとネズミたちの間のわずかな隙間にガラスのビンが落ち、中の液体が飛び散る。一拍遅れて、赤い軌跡が、ビンが落ちたあたりに突き刺さった。小さなナイフだ。刀身には燃え盛る布が巻きつけてある。ハナンはすぐに体を丸めて伏せた。爆発音がして、体のすぐそばにすごい熱を感じた。しばらくの間、パチパチと何かがはぜる音の合間から、ネズミの甲高い鳴き声が聞こえていたが、やがて波が引くように消えていった。

肩を叩かれて、体を起こすと、目の前にトマーが居た。

「やっとまともなお礼ができたな」

右手を振って、トマー笑った。

「トマーさん……」

ハナンが飛び起きて、何度も頭を下げた。

「トマーさん…ありがとうございます」

「遅くなってごめんな。ちょっと調べ者しててよ。ほらこれ」

トマーが出した紙切れは、地図のようだった。あちこち抜けているが、どうやら地下の地図らしい。

「わかる範囲で聞いてきた。ここの入り口とつながっていて、ある程度の水深がある地域と、騒ぎがあった地域はやっぱり一致しているみたいだから、これで大体の行動範囲がわかるはずだ」

「すごい…トマーさんってすごい人なんですね。僕、何にも考えてませんでした」

ハナンの素直な賞賛に、トマーが少しくすぐったそうな顔をした。

「無鉄砲に突き進むのが必要なときもある。お前はそっちは十分持ち合わせてそうだから、あと半分の話じゃねえか」

トマーが、水路からハナンの剣を拾い上げ、返そうとして、まじまじと見た。

「……もしかして、これ、練習用の」

「そうです。僕、武器ってこれしか持ってなくて」

「ハナンはもうちょっと考えて動いたほうがいいな」

トマーがため息をついた。

歩き出そうとしたその時、水路全体に、風の音のような、動物の遠吠えのような音が響いた。高く、低く、うねるようなその音には、何か意志のようなものが感じられる。音は徐々に弱くなり、唐突に終わった。

2人は顔を見合わせ、水路へと足を踏み入れた。






たすけて、たすけて、おかあさん。おかあさん。





声のした方向と地図からあたりをつけ、水路を進んでいくと、ふいに視界が開けた。小型の帆船が一隻停泊できそうな程の空間に、自分達がたどってきたものを含め、いくつかの水路が流れ込んでいる。水は複雑に渦を巻き、また別の水路へと流れ出ているようだ。

たいまつの不安定な明かりと、きれいとは言えない水質のせいで、正確な所は解らないが、ここから先はかなり深そうだ。中央部に浮き島の様なものがひとつ見える。大人が手を広げた位の大きさだ。あそこが足がかりにならないかと、トマーが目を凝らした。その島が、ゆらりと動いた。

良く見ると、島の表面では、小さなものの大群が蠢いている。島はゆっくりと動き回り、その度に何かが水面へぼろぼろと落ち、水音の合間からキィキィと甲高い声が聞こえる。ネズミだ。先ほどハナンを追い掛け回していたのと同じような大きさのネズミの大群が、何かにたかっている。その様子が島のように見えていたのだ。

トマーは、逡巡した。ここから先は泳ぐ必要があるだろう。ネズミの様子や動きから見て、あの下にいるのは生き物の様だ。得体の知れない生物と、ネズミの大群。手がかりも足がかりもない所では相手をするのもやり過ごすのも難しい。

その横で、ハナンが水路に飛び込んだ。勢いで頭まで水に沈み、すぐに浮き上がる。両手で水をかきながら、まっすぐに島に向かって進んでいく。あれはきっと生き物だ。あんな風にネズミにたかられて、平気なわけがない。先ほどの恐怖が頭をよぎる。それは却ってハナンを前へと駆り立てた。なんとかしなきゃ、それだけしか考えていなかった。

周囲を泳いでいるネズミを押しのけ、ハナンが島に取り付いた。手当たり次第にネズミを引き剥がして、水路に投げ捨てる。数匹が腕に噛み付いてきた。眉をしかめて、腕を振り払う。敵意のこもった赤い目が無数に向けられた。それでも、手を動かし続ける。体が、ネズミの大群に半ば沈んだ形になった。腕といわず、体といわず、全身あちこち噛み付かれるのにもかまわず、掻き分けているうち、いつの間にか、ハナンは頭まで水に浸かっていた。息苦しさに気がついた時には、状況は結構切迫していた。前にも後ろにも、上にもネズミが居る。もがいてみても、水の上には出られそうにもない。最後の一息。ハナンは、思いっきり、前に手を伸ばした。ネズミとネズミの隙間、ひんやりした感触が、指先にあたる。体を無理やり前へねじ込むと、目の前に、黒い綺麗な鱗があった。あちこちに食いちぎられた跡がある。息苦しさも、傷の痛みも、目の前の無残な光景に、体の痛みは全て吹っ飛んだ。ハナンが、両手の手のひらで、そっと、黒い鱗に触れた。ちょうどハナンの目の高さに、青い、綺麗な石が2つ現れた。透き通ったその石が、きょろきょろ動く。目だ。青い2つの目が、ハナンを見た。そのとき、ハナンの腕を誰かが取って、引っ張りあげた。

「おい、大丈夫か!?」

トマーを見て、何か言おうとしたハナンの口から、大量の水が吐き出された。むせ返るハナンを、トマーがしっかりと支えた。ハナンの服はあちこちズタボロになり、体中に傷を負っている。

目の前の島が、のたうっている。トマーが島から離れようとしたとき、さっき聞こえた音がした。ネズミの大群の下、確かに、それは泣いていた。心が引き裂かれるような悲痛な叫び声に惹かれるように、ハナンが、右手を、島に向かって伸ばした。

それは、最後の力を振り絞った。大きく体を動かして、自分の皮膚に食いついている小さい嫌な奴らを振り払う。その動きが、水路を揺らす。水は奔流のようにハナンとトマーに叩きつけられた。トマーは手を離さなかった。ハナンは右手を伸ばし続けた。水上に、静かに浮上してきた黒い大きな影の中で光る、青い2つの目がハナンを、ハナンの右手を、真珠のように光り輝く、右手の薬指の爪を、捉えた。

『おかあさん、ぼくはここだよ。ここにいるよ』

ハナンには、確かに、そう、聞こえた。鳴き声の余韻が、空気を細く長く振るわせる。やがて、あたりは静かになった。ネズミたちですら、押し黙り、ただ、波間に揺れるままになっている。

やがて、一旦静まりかけた水面に、さざめくように波が広がり始めた。かと思うと、またたくまに水面が大きく上下に揺れ始めた。何かが猛烈な勢いでこちらに近づいてきている。そう思った、次の瞬間、ネズミがすべて吹っ飛んだ。津波のような水が押し寄せる中、力尽きたのか、ぐったりしてしまったハナンを抱えて、トマーは必死で水の少ないほうへ泳いだ。ようやくもと来た道へ辿りつき、後ろを振り返ると、大きな黒い影と、小さな黒い影が、よりそうように並んでいた。青い4つの光点が、こちらに向いている。2つの影は、ゆっくりと、水の中に沈んでいった。




大きな音に駆けつけてみると、ハナンの部屋は無残な事になっていた。
ベッドはひしゃげて、壁に大穴があいている。

黒い鱗がいくつか、床に落ちていた。
見たこともない美しい黒だ。

「礼を残していくぐらいなら、壊さなきゃいいのによ」

鱗を拾い上げ、マスターが、ため息をついた。

「……そろそろ、帰ってくるかな」

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