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【ハナンの最初のお話】


まどろみ蛙亭は、カッキア港の程近く、船乗りの集まるガラのあまりよろしくない区域にある酒場だ。料理もサービスもそれなり以下だが、来るものを拒まない雰囲気と価格目当ての客でいつも賑わっている。


朝。昨晩遅くまでの賑わいの名残が、店のあちこちに残っている中、下働きの少年が一人、酒瓶や皿を拾い、床を掃き清めていた。少年の名は、ハナン。14歳。物心つく前にまどろみ蛙亭のマスターに引き取られて以来、ずっと住み込みで働いている。癖のあるやわらかい黒髪に黒い瞳。肌は日焼けして浅黒い。同年代の子供と比べると少し背が低く痩せていて、顔立ちもまだあどけないが、声変わりも終わり、ひげもうっすら生えるようになっていた。

夜明け近くまで酔っ払いの相手をしているマスターは、いつも昼過ぎまで眠っている。だから、朝の掃除はハナンの仕事だった。春も半ばを過ぎていたが、朝夕は冷える。それでも、テーブルや椅子を所定の位置に戻して掃除を終える頃には、結構な汗をかいていた。一息ついて、台所から、パンとミルクを持ってくる。大きく開け放した東向きの窓のすぐ脇、とびっきり日当たりのいい席で、静かに朝食をとるのが、ハナンの毎朝の楽しみだった。

柔らかいパンに噛り付いて、存分に咀嚼していると、にわかに表が騒がしくなった。外で複数の人間が走り回る足音がしている。この辺りは朝ほとんど人通りが無い。珍しい出来事に気をとられていると、すぐ横の窓から何かが飛び込んできた。その何かは、必然的に窓のすぐ脇に置いてあるテーブルの上を通過する事になり、結果、ハナンの朝食は無残に蹴散らされた。惨状を尻目に、ひらりと床に降り立ったその「何か」は、20代半ば、赤茶色の髪と瞳をした、中背の男だった。何度か店に来た事のある客だ。確か、トマーと名乗っていた。

「あ、悪い。悪いついでに、匿ってくれ」

言い捨てると、トマーはカウンターを飛び越えて店の奥に消えた。

ハナンは、状況を理解しきれないながらも、半ば条件反射で掃除を始めた。入り口近くまで飛び散ってしまったミルクを、雑巾で拭き取っていると、目の前でドアが乱暴に開いた。ブーツを履いた足が沢山見える。見上げると、先頭に大柄なのが一人、その後ろに数人、武装したいかにも兵士然とした男たちが立っていた。この街の警備兵の一団だった。

「何だお前、何をしているんだ」

先頭の男が、じろりと睨み付けた。ハナンが、あわてて立ちあがる。男の目線は、ハナンを飛び越えて店の中を睨め回し、開きっぱなしの窓と、散乱した食べ物で止まった。

「男が一人来ただろう。昨晩発生した、警備団の地下武器庫襲撃事件の容疑者だ」

「しっ……」

ハナンが、首をぶんぶん振る。

「知りませんっ……」

溺れている人間の悲鳴の様な声だ。同じようにもう一度、知りません、と言おうとしたのを、男があきれ顔で制した。

「わかった。もういい」

男が、肩越しに後ろの男達に向かって軽く手を振った。

「探すぞ」

言いながら、自ら先頭に立って酒場に入ろうとした。自然と、目の前に立つハナンを押しのける形になる。その男の手を、ハナンが掴んで、引き止めた。

「駄目です。入らないでください。まだ準備中なんです」

「捜査だ」

「解ってます。でも駄目です」

「わからんガキだな」

男が、ハナンの手を乱暴に振りほどこうとした。振りほどかれまいと、ハナンがしがみつく。男の表情が変わる。物も言わず、男は、空いている方の手で、ハナンの頬に平手を入れた。手加減無しの音が鳴り響く。それでも、ハナンは離れない。2回、3回と乾いた音を立てた後、男の手が握りこぶしに変わった。後ろの男達が、とばっちりを恐れてか、一歩下がった。

「……営業時間外は暴力禁止だぜ、ケフェウスの大将」

店の奥から、あくびをしながら、背の高い、見るからに屈強そうな中年男性が一人現れた。まどろみ蛙亭のマスターだ。腕っ節はもちろんの事、街のあちこちに顔が効く。気軽に喧嘩をする気にはなれない相手だ。

「そうか、てめえの店か」

男……ケフェウスが、露骨にしまった、という表情をしてハナンを突き飛ばし、マスターをひと睨みすると、不機嫌そうに出て行った。後ろに居た男達も、あわてて続く。ドアが乱暴に閉められるのを、マスターは寝起きの目で見送った。

「困った連中だ。チンピラ上がりばかり雇うから。年々質が悪くなる」

「マスター、起こしてしまってすいません」

「いいよ。それより」

「あいつ、すげーびびってたな。いい気味だ」

カウンターの裏から、トマーがひょっこり顔を出した。

「トマー、俺はお前の稼業について何も言う気は無いが、愉快犯めいた仕事はいただけないな」

「違うよ」

トマーがうんざりした様子で手を振った。

「俺じゃないんだ。なのに、あいつ等が寝床に押しかけてきて朝っぱらから問答無用で町中追い回されてよ」

「最近よく聞く倉庫荒らしもお前って事になってるんだろ?」

「……俺じゃねえっつの」

「日ごろの行いが悪すぎるんだ。警備団の連中を無駄におちょくって買わなくてもいい恨みを買ってるんだろ」

「あいつらチンピラと変わりない癖に威張り散らしてるから」

「とっとと出て行ってくれ。あ、出て行くときは誰にも見られないようにしてくれよ」

「わかってるって。寝起きじゃなかったらあんな奴ら」

「ああ、その前に、掃除……」

いいかけて、ふとマスターが目をやると、ハナンが片づけを再開していた。

「ハナン、いいよ。トマーにやらせるから」

「あ、もう終わりですから」

事も無げに言うのを見て、トマーが決まり悪そうな顔をした。

「あー、ハナン、っていうの?ごめんな。朝ごはん台無しにしてしまって」

「大丈夫です。パンもミルクもまだまだあります」

「あと、ありがとな。恩にきる」

「ええと……」

ハナンが、少し考え込て、口を開いた。

「お客さんは家族も同然だと思いなさいって、マスターがいってたから。家族は、いつでも信じてあげて、守るものだって、これもマスターが……」

言い終わる前に、大げさな動きでトマーが手を広げ、ハナンを抱きしめた。

「ハナン、いい子だ。こんなに真っ直ぐ育って」

「育てたのは俺だぞ」

「君は何処の荒野で育ってもきっと今みたいな良い子になってたよ」

「お前その調子で方々で恨みを買ってるんだな」

あきれた様に言うマスターを、トマーは無視し、ハナンの背中をぽんぽん叩いた。

「何かお礼をさせてくれよ。何かないか?」

「え、えーと」

ハナンは、言いにくそうに、声を落とした。

「あの……離してもらえませんか」

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